がらくた宝箱 人さまからはごみ同然のがらくたでも、何物にもかえがたい物があります。 形として残っているものもあれば、思い出の中で輝いているものもあります。 そんなものを、とりあげてみました。 もちろん、ごみとはいえない大切なものも♪ |
★「母の日」の手紙 ★へそ石 ★昭和二十四年の入学祝 ★お福さんの掛け軸 ★分厚いノート ★キューピーさん豹変す ★母の母 ★天国からの声 ★進駐軍の帽子 ★初めてのカメラ ★あたちのお部屋? ★二枚の肖像画 ★手袋 ★園のたより ★手作りのとんぼバッグ ★60年前のチラシ ★主要食料選択切符? ★拾銭 日本銀行券 |
★「母の日」の手紙 | |
五十年以上も前の母の日に、私が書いた手紙が仏壇の引出しからでてきたことは、 ちょっとした驚きだった。 三年前に亡くなった母が大切に持っていてくれたのだ。 母の日の手紙にもかかわらず、宛名が山本喜代子お母さん・幸三郎おじいさんへ と書いてあるのは、それだけ祖父が好きだったからだと思う。なお、祖父は母の実父である。 大学ノートをちぎって作った封書の左肩に(大学ノートって、この時代から、もうあったのですね) 「十円」切手が手書きしてある。ということは、封書が十円の時代だったのだろう。 封筒の裏には、五月九日 日曜日 母の日 私は赤いカーネーションと書いてある。 私のお母ちゃん、おじいちゃんは、お元気なので私もよろこんでいます。(注@) せんだくやごはんたきをしてくださるおじいさん、お母さん、ほんとうにありがとう。(注A) 私は口ではいわないけれども、お母さんやおじいさんのようなよい人は、世の中を さがしても、一人おられないと思います。(注B) 私の母とおじいちゃんは、お家の「宝」です。お母ちゃんはお母ちゃんがいられなくて、 ほんとうにおきのどくです。思えば思うほどきのどくです(注C) 私がたとえ火の中にはいっても、(注D) 私が死んでも、お母ちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんは死なないでください。(注E) さきほどよくおてつだいをしましたけれども、あとがこわいですよ。(注F) 「フフフフフフフフ」 では、みなさんおからだおたいせつに。 注@ 文中、お母さんもあれは、母という表現もある。かなりいいかげんだ。 注A 祖父は「ご馳走食べ」(今でいうグルメのこと)で、明治の人にしては、男が台所に立つこと を何とも思っていなかった。 注B わたしが子どもだった頃、京都の子どもは、親に敬語を使っていた。 「お母ちゃんがいわはります」「おじいちゃんがしてくれはります」「今、居たはりません」など。 注C 母の生母は、母が五歳の時にスペイン風邪で亡くなっていた。 注D これは、母に聞かせてもらった昔話の影響である。 村にやってきた老人は飢えていた。 森の動物たちが次々食べ物を探してくるが、 うさぎは、何も見つけることができなかった。 「わたしを食べて」 うさぎが焚き火に飛び込む寸前、 老人は神様戻り、うさぎを抱え月にのぼっていった。 注E ここではじめておばあちゃんが出てくる。おばあちゃんは祖父の再々婚の相手で、 元芸者さん。祖父よりずいぶん若かったし、頭を束髪に結い上げ、毎日三味線ばかり弾いて いたので、手紙の前半の母の日の感謝の手紙からは、外れてしまったのだと思う。 注F 何を手伝ったか覚えていないが、母はこの一文を気に入っていたことだけは、なつかしく 思い出す。 ★思い出って、不思議なものですね。たった十数行の短い手紙から、五十年前のことが、 まるで昨日の事のように、ぽろぽろこぼれ落ちてきます。 手紙を残しておいてくれた母に感謝です。 |
★へそ石 |
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六角堂の境内にある「へそ石」は、 その昔、京の町の中心を示すものだったそうだ。 畏れ多くもこのへそ石は、一人っ子のわたしの遊び相手だった……。 戦時中、私の一家は、女、老人、子どもの世帯だということで、 滋賀県の草津に強制疎開していた。 戦争が終わって京都に戻ってきたが、すぐには住む家がみつからず、 祖父が堂守りをするという条件で、六角堂のお茶所に住まわせてもらうことになったのは、 六角堂の堂主でもある華道の家元池坊の先代の奥様とのご縁だったらしい。 その頃、「へそ石」は、脇門から入った石畳の中に、 道の一部としてはめ込まれていた。 その場所は、お茶所の奥の間からすだれ越しに見えることもあって、 母の監視の元、わたしはよく、ここで泥遊びをしていた。 「へそ石」のへこんだ真中の部分に泥をつめては、かい出し、 また泥をつめては遊んでいたことをよく覚えている。 そこが京都の中心だったということは聞かされていたが、 そんな遊びをしても誰にも叱られなかった。 それどころが、脇門から入ってくる人は、 みんな道の一部の「へそ石」を踏みつけて通っていた。 何年か前、六角堂にお参りしたとき驚いてしまった。 あの「へそ石」が、囲いの中に移されて、立て札も物々しく、鎮座ましていたからだ。 ★「へそ石」さん、ごめんなさい。そして、ご出世おめでとうございます。 でも、囲いの中は自由がなくて、かわいそう……。 あのお……、泥遊びさせていただいた小さな女の子のこと、 覚えていらっしゃいますか? |
★昭和24年の入学祝 | |
「へそ石」のはまっていた石畳のどんつき(六角堂の境内)に、平屋の日本家屋が建っていた。 そこに墨染めの衣をまとった年配のお坊さんが住んでいらした。母にいわせると、えらーいお坊さんとのことだった。そのえらーいお坊さんが、私が一年生になったときに、お祝いの色紙を書いてくださった。というより、母がお願いしたものと思われる。その色紙をいただくときに、私は、母から何度も「ありがとう」を強制されて、おじぎをさせられた。 としことの(殿) 目出たしや 国の寶のうなゐ子が 入学を けふまなびやに(今日学び舎に)初のぼりして 祝ふ 裏に昭和二十四年四月十日 そしてお名前が記されているが、達筆すぎて読めない。 当時は○○さんと、なれなれしく呼んでいたのだけれど、思い出せない。色紙に書かれ ていた歌は、空で覚えているというのに。 |
★お福さんの掛け軸 |
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六角堂のお茶所に住んでいたころ、 十二単を着て微笑んでいるお福さんの掛け軸が、いつも茶の間にかかっていた。 父方の祖母が御所の絵師だったとかで、その方の描かれたものだときいていた。 父が私に残してくれたものである。私は、その絵を毎日のようにスケッチしていた。 祖父(母の父)が、「としやんは絵がうまいなあ。血筋かもしれん」なんて、 ほめてくれたものだ。 その頃の我が家は竹の子生活。家財道具はもちろん、 祖父が趣味で集めた書画骨董を売り、かろうじて生活していたらしい。 が、とうとう仏壇まで手放してしまった。 観音開きの折たたみ式扉が二重の、しかも、中は金張りの とても立派な仏壇だったのを覚えている。 父はなく、祖父、祖母、母のうちだれも働いていなかったのだから、 しかたがないことだったのだろう。 山本家の過去帖も、曾祖父が亡くなったときの芳名録もいいお値段で売れたそうだ。 そして、とうとうお福さんの掛け軸も売られていった。 それからしばらくたって、お福さんに再会した。 ほんの目と鼻の先にある美術商のショーウインドウに飾ってあった。 クラスメートの男子の家だった。 わたしは学校の行き帰りにショーウインドウをのぞいて、お福さんをながめていたものだ。 さみしいとも悲しいとも思わなかった。 低学年の私にとっては、飾ってある場所が、 茶の間からショーウインドウに変わっただけのことだった。 ★それにしても、あのお福さんの掛け軸は、今、いったいどこにあるのかな。 ★ 分厚いノート これは、わたしの娘が小学生だった頃の話である。。 上の娘が小学二年生夏休み、わたしは、一冊の大学ノートを娘に渡した。 100枚綴り、つまり200ページもある分厚いノートだった。 そのノートに夏休みの間、何でもいいから埋めてみなさいと、私はいった。 計算でもいい、漢字の書き取りでもいい、日記でも、切り抜きでも、 折り紙をはってもいい。なんでも自由に使っていいから……と。 といっても、200ページもあるから、一日5ページは埋めていかないとクリアーできない。 小学生には、なかなかキビイシイ課題だったかもしれない。 長女は書くことが大好きだった。いつも何かしら書いていた ばらばらに書くよりいいかなと思ったまでのことだったが、小2の子どものことだ。 まさか、最後まで完璧に埋めるとは思っていなかった。 夏休み最後の日にすべてのページを埋め尽くしたときは、驚いてしまった。 胸がいっぱいになって、娘をだきしめたものだ。 本人の充実感と、感激はそれ以上だったと思う。 それから、毎年夏休みになると、200ページのノートは我が家の課題になった。 大切にしまってあるこれらのノートを、時々引っ張り出して見てみるが、 がんばっていた子どもの姿がノートからとびだしてきて、愛おしさがこみあげてくる。 「そういえば、こんなこともあったね」 「このときは、こうだったね」 などと、思い出に話がはずむ。一冊一冊が、まさに宝石箱のようである。 スナップ写真や、夏休みに行った水族館や遊園地、映画や美術館の入場券、 友達や先生からの暑中見舞いも張ってあるし、旅先の押し花も挟んである。 子ども自身の手作りの絵本や、漫画、イラストも描いてある。 どのページにも、工夫のあとがみられる。 学年があがるにつけ、内容も書き取りや計算、日記などから、創作中心に変わっていった。 その成長過程が、うれしくも、なつかしくもある。
裏に昭和三年三月とある。 母は、五歳で母親と死別したが、物質面では何不自由なく、というか、 とてもぜいたくな少女時代をすごしたらしい。 八十四歳で母が亡くなって、京都で偲ぶ会をした時に、 女学校の同級生がよんでくださった弔辞に、こう書かれていた。 (……略) 振り返りませば、女学校三年生の頃、私は五条坂界隈に住んでいました。 喜代子さんもご近所にお住まいでした。 通学は市電で五条坂より、出世稲荷まで、共に通いました。 その頃の喜代子さんは、髪を二つに分けた三つ網のお下げで、 丸ぽちゃのキューピーさんのような大きな目のかわいい、おとなしい娘さんでした。 制服をぬいだ喜代子さんは、 当時流行のおしゃれな上等な服を、いつも着せてもらって居られました。 私の目には、良家のお嬢さんとお見受けして、 うらやましく思っておりました。 その面影は忘れられません。 母の人生は、それから豹変するのだが、 上の写真は、ちょうど、その良き頃のものだと思われる。 弔辞は、まだまだ続く。 (中略) 五十年経って京都に帰り、クラス会に出席しました。 懐かしいお友達と再会し、まず一番に驚いたのは、 喜代子さんの変わりぶりでした。 細身に白髪、雄弁で多趣味、 積極的で堂々としたキャリアウーマンぶりに変身しておられました。 いろいろご苦労もおありだったでしょうが、 再会の喜代子さんに目を見張るばかりでした。 クラス会の幹事をお引き受けになれば、てきぱきと進行され、 アイディアを考えて、会を盛り上げてくださいました。 また、お顔もお広く、お付き合いも多く、お世話好きで、 良縁の縁結びにも奔走されていました。 娘時代の楚々とした喜代子さんを思い浮かべるとき、 そのバイタリィあふれる人生を感心するのみでした。 と、あった。 先祖が残してくれた資産のおかげで、一生、これといった仕事をしなかった祖父。 戦争を挟んで後は、そんな祖父の代わりに、母が一家を支えることになった。 母は、貧乏でも平気だった。 「さんざんええもん着て、ぜいたくしてきたさかい、 うらやまいことなんて、ちっともない」 そういっていた。 祖父も、大らかだった。 書画骨董の鑑定を時々頼まれるものの、 母に働かせて、芸者だったおばあちゃんと、 のんきに暮らしていた。 そのせいだろう、転々と間借り生活をしていたにもかかわらず、 私は、自分の家が貧乏だとは、気がつかなかった。 弔辞は続く。 今年の年賀状に、 「八十路ゆく、しがら冠かがやけり」 と、したためてありました。 (後略) 晩年の母は、とても元気なおばあちゃんだった。 「山本先生は、100歳までは大丈夫」と、 みんなに太鼓判を押されていた母。 末期ガンとは知らずに亡くなったのだが、 (いえ、あるいは知っていたかもしれませんが) 上記の句が、辞世の句となった。 五歳の時に死別した母と、あの世とやらでめぐりあえ、 甘えられていることを、 ただただ願うばかりだ。 ★母の母 母の母スマは、母が五歳の時にスペイン風邪で亡くなった。 そう母から聞いている。 「お裁縫からお茶、お花、なんでもできた才女やったんえ」 と、母はよくいっていたが、すべて人から聞いた話らしく、 母は、生母について、実際は何も覚えていないようだった。 昔の五歳は今でいう四歳。さもありなんと思う。 さみしいことはあっても、死別の悲しみを知らないので、 あっけらかんとしたものだった。 むしろ、夫である祖父の気落ちはたいへんだったらしく、 半ばやけっぱちで、あっちで女の人を囲い、 こっちで、子どもを作っていたという。 祖父は責任感が強かったのか、律儀だったのか、 子どもができると、すぐ籍に入れていた。 今時、なかなか認知しない男もいるというのに、立派ではないか。 ところが、これを書くに当たって、仏壇の引き出しにあった戸籍を見ておどろいた。 妻スマとの間に長女(磯野)が生まれたあと、次女である母が生まれるまでの十年間に、 何人もの外腹にできた子どもの籍が入っていたからだ。 しかも、幸三郎とスマとの養女として。 飯田某女との間に生まれた千代、 長谷川某女との間に生まれたミサヲ、 西野某女との間に生まれたきみ、 なんとまあ、立派どころか、ずいぶん身勝手な夫ではないか。 在りし日のスマ(まだ30代) スマがよくできた人だったといわれていたわけが、わかったような気がした。 妻が亡くなった後も大崎某女との間にできた、ふくと女の子の籍が入っていた。 ふくについては、母もおぼえているとこんな話をしてくれたことがある。 「ふくちゃんはね、白足袋を履いた男の人をみると、『おとうはんや』というて かけよってたんやて。たましか来はらへんおとうはんのイメージが 白足袋やったやなんて、あわれやなあ」 どの子も、それぞれ生みの母親が育てていたらしいが、 疫痢やなんかの流行(はやり)病で亡くなって、母だけが残った。 祖父は、籍を入れた子どもたちの遺骨を先祖の墓に納め、過去帖に記し、 朝夕、仏壇に手を合わせていた。 供養は母に継がれ、現在わたしが手を合わせている。 わたしが「おばあちゃん」と呼んでいた人は、祖父が後々に再婚した人で、 おセイという。元芸者だったが、面影がどことのうスマさんに似ている。 祖父と祖母と母とわたし。それが家族のすべてだった。 ★ 天国からの声 古い新聞の切抜きがある。 昭和28年のものだ。 見出しは「ひっくり返った不起訴。検察審議会の断で実刑」とある。 記事の内容は、母から聞いていたものとあわせるとこうだ。 昭和23年に祖父(当時七十二歳)が13万円のお金を貸した。 (この頃には、人様にお金をお貸しするゆとりが、まだあったようだ) 担保に家の権利書を預かった。 ところが、借用人K(34歳)はうまいことをいって、祖父から権利書を巻き上げた(母の話)。 挙句裁判になって祖父は負けたが、祖父は再度、起訴していたらしい。 「検事の不起訴処分を審査する検察審議会で調査の結果、 けしからぬということになり結局正式に起訴され、 実刑を言い渡された珍しい事件がある」(新聞記事)。 ということになった。 Kは懲役10ヶ月(求刑二年)を受けたが、かといってお金も権利書も戻ってこなかった。 しかし、一件落着である。 人のいい祖父は、そういうこともたびたびあり、 小豆相場にも手を出し、、 大まかな財産は、使ってしまった。 あとは、戦後の竹の子生活。 わたしが子どもの頃は、きれいさっぱりすっからかんだったようだ。 昭和三十四年、祖父が亡くなり、 すべて遠い昔の語り草になっていた。 というか、私には関係のない遠い昔の話だった。 ところが、50年近く経った平成6年のことである。 突然、母の元に男性が訪ねてきて、 上記の土地のことで話があるといった。 男性は、現在の土地の所有者の弁護士だった。 担保になった土地(182・65u)の権利書はKが奪い去ったのだが、 実は、祖父の名義になっている土地がまだあるというのだ。 土地に付随している用水路のものだ(1・57u)。 わずか1・57uのために、土地が高く転売できずに困っているので、 名義を書き換えさせてほしいというものだ。 「たった1・57uぐらいあってもどうしようもないですよ」 という弁護士の話に、わずか数万円で、 人のいい母は同意した。 身内は私だけ。母がそれでいいならと、判をついた。 こんどこそ、ほんとうに一件落着だった。 「それにしても、五十年近くも経ってから、ねえ」 (としやん、こんな話もあったんや、ときどき思い出してや) 天国から、おじいちゃんの声が聞こえてきた。 ★進駐軍の帽子 明治生まれの祖父は、生涯を和服で通した。 夏は絽の甚ベさんにステテコだったが、 それ以外の季節は、きっちり角帯を締めて、羽織を着ていた。 冬は、そのうえにカワウソの襟のついた黒いマント。 夏はパナマのカンカン帽、冬は中折れ帽をかぶっていたのだが、 実は、もう一つ帽子をもっていた。 それが進駐軍の帽子だった。 どこで手に入れたのかは、今となってはわからないけれど、 禿げ頭にも、和服にも違和感なくマッチしていた。 当時、京都の四条烏丸のビルは、進駐軍に占領されていた。 ジープに乗った兵士を見かけると、男の子たちは、 「ギブミーチョコレート」といって、手を出していた。 マッカーサー元帥もここにいたように思う。 竹の子生活で、すっからかんになったにもかかわらず、 祖父のマントについていたカワウソの襟と、進駐軍の帽子が私の手元に残っているのは、 売り物にはならないし、かといって捨てられなかったからだろう。 帽子のうらには、The Pegasusの金文字の筆記体が ★初めてのカメラ 小学六年生のときに、祖父に、初めてカメラを買ってもらった。 皮のケースがついて550円だったと記憶している。 カメラ店で一番安いカメラというか、 子ども向けのおもちゃのようなものだったかもしれない。 それでも、とてもうれしかった。 帰りにレストランに行った。 「おじいちゃん、撮ったげるから、動いたらあかんえ」 と、わたしは、おじいちゃんにいろんなポーズをさせた。 「笑って」とか、「すまして」とか、ナイフとフォークでカツを切れなど、 注文をつけた。 祖父はいやがらずにいう通りにしてくれた。 わたしは、写真がうまくとれたか気になってしかたがない。 そこで、こういった。 「ちゃんとうつってるか、みたげる」 そして、なんとまあ、カメラをあけて、中をみたのである。 フィルムが収まらなくなって、カメラ屋にとんでいった。 「写ってるかどうか、みたかったんです」 「もしかしたら光が入って、あかんかもしれませんね」 あけてはいけないなどと責めたり、笑ったりしなかったのは、 あきれたからだろうか、それとも時代のやさしさなのか……。 そのときのことを思い出すたび、暖かいものが流れる。 さて、このカメラには後日談があって、 五年ほど前、「ビッグコミック」というコミック誌に、 このカメラと同種のものが、ある漫画家の思い出としてイラストで紹介されていた。 自分の身内がいきなりスポットライトを浴びたような、気恥ずかしさと、うれしさで、 それから何日も、幸せな気分だった。 ★あたちのお部屋? 長女は、小さい頃、可愛いものが大好きで、 特にピンクには目がなかった。 ピンクのチェストにピンクの洋服ダンス。ピンクの本箱にピンクのスタンド。 壁紙までがピンクの部屋で、 いかにも楽しそうにプレゼントを開けている五歳の頃の長女。 でも、よ〜く見て。家具にはみんな値札が……。 そうなのです。ここは、ダイエーの家具売り場。 「買ってはあげないけど、写真なら撮ってあげる」 なんという母……。 素直な長女は、クリスマスの帽子まで拝借して、いかにも楽しそう。 「ストップ! 開けたらあかん!」 「まねちてるだけ」 「そう、まねだけよ。はい、ポーズ」 珍入者に、キティちゃんが、およよよよっ! (お、小指に包帯が……。どうしたんだっけ?) ★二枚の肖像画 物心ついた時から、家に二枚の肖像画がある。 向かって右は、祖父の兄だときいている。 父親がすでに亡くなって、この兄が家業をついでいたそうだ。 自宅に絵師を呼んで、最初に肖像画を描いてもらったのは兄。 完成まで、かなりの時間がかかたようだ。 祖父は、当時、「河原町のぼん」と呼ばれていて、今でいうぷーたろう。 毎晩、お茶屋で遊んでいたようだ。 冷やかし半分に自分も描いてもらおうということになったらしいが、 その段になって、「なるだけ大き描いてや」といったそうだ。 そしてできあがったのが、向かって左の絵だ。 なるほど、人物が大きい。が、右に比べて全体のバランスがよくない。 絵師も、わがままなぼんには、苦笑していたことだろう。 祖父は、若い頃から大変もてたそうだが、 ビートルズのようなヘアースタイルが、明治にしては、なんともモダンではないか。 わたしの知っている祖父は、はげちゃびん。一生を着物で通した人だ。 二枚の肖像画は、引越しのたびについてきて、 戦後の竹の子生活でも売られず(売れなかった?)、 途中で、表装をしなおし、 母が亡くなったあと、遺品としてわたしのところにきている。 幼い頃は「写真」だと思っていた。それぐらい精巧に描かれた絵だ。 1本1本描かれた髪の毛と眉毛。見ているものが映るような瞳彩。 着物には、細かい縞模様が、ていねいに入っている。 ★手袋 母が亡くなった時、 平屋とはいえ、家一軒分の世帯道具が遺ったわけで、 それを処分するのはたいへんだった。 しかも母は、ご縁談のお世話をしていたので、 いただき物が山のようにあった。 何かのときのためにといいつつ買いだめたものも、たくさんあった。 新品の物や値打ちのある物ほど、惜しげなく手放すことができた。 着ていた洋服などもバザーに出したり、 知人に差し上げたりして、よろこんでいただいた。 家財道具や生活用品などは、思い切って捨てた。 それでも、母のごく身近にあった物は、 母が亡くなって8年経った今も、まだ捨て切れずにいる。 母が趣味で撮った写真のアルバムの山や、 最後まで使っていたバッグや洋服、着物などもそうだ。 たぶん、どれだけ時間が経っても、思い出がじゃまをして、 わたしの手で捨てることはできないだろう。 わたしが死んだら、何も見ずに捨ててもらうしかない。 どうしても捨てられないものの中に、 母が晩年使っていた手袋がある。 指先にあいた穴を、黒い糸で細かく繕ってある。 そう、黒い糸で。 たぶん、繕おうと思ったときに、黒糸が針に通っていたのだろう。 そういうところが、いかにも母らしい。 いえ、言いたいのは糸の色のことではない。 母は、苦労の末、晩年は経済的恵まれ、 贅沢をしようと思えばいくらでもできた。 わたしや孫には、これでもかというほどあれこれしてくれたのに、 自分にはとてもつましかった。 母の家財を整理していたとき、 茶箪笥の小皿に、干からびた塩昆布が数枚のっていたのを見て、 涙が止まらなかった。 手袋も、皮やカシミアなどたくさん持っていた。 さらのまま残っていたものもいく組みもあった。 でも母が愛用していたのは、黒い糸で繕ったこの手袋だった。 手袋をそっとはめ、両手でほっぺたを包んでみる。 母が生きていた日々が思い出される。 ★園のたより わたしが幼稚園に通っていた頃の出席簿で、 日付は昭和24年になっています。 戦後の竹の子生活の後、 転々と間借生活をしていたこともあるので、 こんな小さな物が残っていること自体、驚きなのです。 引越しの度に、母が、わたしの絵や作文、成績表などの入った段ボールの箱を 大事に持ち運んでくれたからでしょう。 今の時代とは違って、子どもに迎合していないというか、 出席簿は、実質本位の殺風景なものなので、 母が厚紙に千代紙を張って表紙を作り、つけてくれました。 桃色のリボンで綴じてくれたまではよかったのですが、 そのリボンが染まってしまいました。 がっがりしたことを覚えています。 表紙の裏には、大丸の包装紙がはってあります。 この包装紙もよく覚えています。 百貨店で売っているいろいろなものが描かれているので、 あきずに、楽しく見ていました。 色を塗ったり、切り抜いたりもしました。 ついこの間のことのように思いだします。 園のたよりの後ろには、 「強く育てよ」「敬せよ」「「愛せよ」 と書かれています。 そういえば今の時代、「敬せよ」(敬わせよ)が欠落していると思います。 その思いは、2006・10・9に書きました。 |
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★手作りとんぼのバッグ 友人がプレゼントしてくれたバッグには、 「モモイロハートそのこリュウ」や「ひいばあちゃんはごきげんぼくはふきげん」、 「灰色バス変身大作戦」、「まんざいでばんざい」、「行こうぜ! サーカス」、 「とらちゃんつむじ風」に出てくるキャラクターがアップリケしてあります。 作ってくれたのは、友人の友人のクローバー。Mさん プレゼントしてもらったとんぼたち |
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★60年前のチラシ わたしが子どものころに描いた絵やお習字が、 ダンボールに一箱残っています。 いろいろ面白いものが見つかります。 配給のクーポン券やカバヤキャラメルの家族合わせのカードなど。 千代みがき石鹸本舗 60年前のチラシは、破れそうに薄いです。 幼稚園児の頃、このチラシの裏に描いた絵がたくさん残っています。 チラシには 京都・大阪・廣島 家庭用・工業用・専賣特許・登録商標 などと書かれています。 専売特許のNoも書かれていますが この時代、石鹸にも特許がいるほど貴重だったのでしょうか。 |
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★主要食料選択購入切符 わたしが子どものころは戦後間もないころで お米などは自由に買えませんでした。 配給といって、家族の人数に合わせた量だけしか 手に入れることはできなかったのです。 しかも引き換えるためのクーポン券がいりました。 それが、「主要食料選択購入切符」いわれているものです。 ↓ 画面をクリックすると大きくなります 裏面の説明を読むと、人に譲渡したら 処罰を受けるとありますが とても大切なものでした 2歳の頃、わたしは急性肺炎にかかりました 終戦間もない頃で病院には患者があふれていました わたしは冷たい皮のベッドに放ったかされたままだったそうで (このままでは死んでしまう)と思った祖父は わたしを着物のふところに入れて 家に連れて帰りました 大切な配給の切符を使って闇で炭を買い 部屋を閉め切ってどんどんお湯を沸かし始めました 湯気で窓ガラスからは水滴がしたたり ふすまはべろべろに波打ったそうです 祖父がぜいたくに焚いてくれた炭のおかげで わたしは命を取り留めたということです こちらは一般用米穀類購入通帳です。 といっても昭和47年6月発行で、戦後27年も経っています。 それでも米穀通帳が権威をふるっていたのですね。 ↓ 農林省 世帯人員2人(夫とわたし) 1か月当たりの基本配給は なんと驚きの30キロ! 「この通帳がないと配給を受けることができない」 と書かれています ……そういえば配給米のほかに 自主流通米というものがあったような…… 配給米は、おいしくなかったような…… わたしが主婦になってからのことですが どうも記憶が曖昧です |
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★拾銭 日本銀行券 少女の頃、物価には無関心でしたが ドングリ飴が2個で1円でした 拾銭札 紙質は、めちゃ悪いです。しかも裁断はまちまち (左上のお札の上下の広さの違い) 今どき、おもちゃのお札でも こんな不良品はありません お札の大きさは ↓ 文字は右から左です |
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