授賞式 
あんな話、こんな出会い。 そして、賞金……。


公募は作家への大きな足がかりになります。「あの賞をもらった時は、どんなだった?」と聞かれることがよくあるのですが、記憶は薄れていく一方。こうして書き出してみても、うろ覚えの部分も多々あります。表彰式で出会った方が、その後も公募入選を重ねて、着実に作家になっていかれる様子を見聞きすることは、仲間の活躍と同じようにうれしいものです。ご参考までに。




2005年6月7日 「盲導犬不合格物語」が産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞  

賞金10万円

表彰式当日の日記を転載します。

6月7日(火) 「産経児童出版文化賞授賞式」

★産経児童出版文化賞の授賞式に出席のため、上京しました。「次の世代を担う子どもたちによい本を」という趣旨のもと制定された文化賞は、昭和29年に始まっていたのですねえ。今年は第52回なので逆算すればわかることなのですが、昭和29年という活字を見て、改めて賞の重みを感じました。歴代の受賞者の名まえと著書名の載った冊子をいただいたのですが、「盲導犬不合格物語」もこうして冊子に載せ続けられていくのかと思うと、身の引き締まる思いがしました。学研さんにも賞状と楯が送られたのですが、31年ぶりということで、とても喜んでくださいました。重ねてうれしかったのは、懇親会の会場で、秋篠宮妃殿下紀子さまにお目にかかり、お言葉を交わしていただだいたことです。「あのお、名刺などもらっていただけるでしょうか」。なんともあつかましいおばさんに紀子さまは、「はい、いだたきますよ」と、にこやかに微笑みながら受け取ってくださいました。わたしの名刺を見て、「まあ、とんぼの絵ですね」とおっしゃい、「はい、翔んでいる母でいたいという願望で……」「あら、胸にもとんぼのブローチが」とわたしの胸に目をとめられました。つけていたスワロスキーのとんぼのブローチは、創作仲間のNさんがこのたびのお祝いに贈ってくださったものです。そう申し上げると、「きれいですねえ」とお話をあわせてくださいました。淡い黄色のスーツをお召しになった紀子さまは、大粒の真珠のブローチとネックレスをつけていらっしゃいました。とてもお似合いでした。


        
             懇親会会場のテーブルには受賞作品が並べられていました

順番がくると、侍従の方がテーブルの本を作者に手渡します。それを手に、編集者とともに紀子さまのおそばに行くのです。話が後先になりましたが、式典での紀子さまのお言葉の一部は、昨日の産経新聞の朝刊に出ていますが、「……わたしたちの心を深く動かし、長く読み継がれる本が作られていくことを願っています」は、ひとこと、ひとこと、心にしっかり受け止めました。




★2005年 『盲導犬不合格物語』  青少年読書感想文コンクールで、感想文が内閣総理大臣賞受賞。

表彰式の日記をそのまま転載します。

2月4日(金) 「表彰式」

★青少年読書感想文全国コンクールは、今年記念すべき50周年だそうで、皇太子殿下ご臨席の元に行われました。たくさんの方が来られていて、想像以上に盛大なのでびっくりしました。ご挨拶・ご講評・表彰と式は進んで行き、受賞者の代表が感想文を読む段になりました。光栄にも、「盲導犬不合格物語」の感想文を書いた島根県の森結衣子ちゃん(四年生)が読んでくれるのです。その感想文は、4日付けの毎日新聞の朝刊(特集には1面から7面にわたり他の入賞者の感想文も)出ていますし、結衣子ちゃんの感想文は、すでにわたしの日記からも読めるようにしたのですが、(1月13日)、素直で感動的な感想文なので、ここに再度リンクいたします。結衣子ちゃんは、一呼吸あけるときは、こっくり頷いてタイミングをとっていて、それがなんともほほえましかったです。とてもお上手に読まれました。その感想文を受けて、著者代表ということで、晴れがましくもわたしがスピーチをさせていただきました。おかげさまで好評だったようで、知らない方から大勢声をかけていただき、とてもうれしかったです。「え、一体何をしゃべったの?」とわたしの仲間は聞くにちがいありません。はあい、了解。この思いはみんなにも伝えたいので、原稿があるうちにスピーチを載せることにしました。                   

 受賞者のみなさん、このたびは、まことに、おめでとうございます。
 みなさんの感想文は、四百万以上もある応募作の中から選らばれたと伺いました。
四百万、すごいですねえ。

 お話を書いた者の立場からいわせていただくと、
たくさんたくさんある本の中から、「この本にしよう」と選んで、
読んでもらえたことは、それだけで大きなよろこびです。
まして、こうして賞をもらってくださって、わたしはもちろん、
他の作者の方も、とても名誉に思っていらっしゃることでしょう。

「盲導犬不合格物語」を選んでくださった
衣子ちゃん、
ありがとうございます。

 わたくしがこの本で伝えたいと思っていたことを、しっかり読み取ってくださったうえに、ご自分のことと重ねあっての感想文、活字で前もって読ませていただいたときもそうでしたが、今、聞いていて深く感動いたしました。
 ゼナやベンジー、ラタンたち不合格犬も、「役に立ったなあ」って、
きっと喜んでくれていると思います。

 わたくしが、童話を書くときに願っていることは、一つ。
そのお話が、子どもたちへの応援歌になってくれたらいいなということです。

 今の時代は、
子どもが子どもらしく、天真爛漫でいるのはたいへん難しい、
そんな世の中です。

 「戦争はいけないことだ」と教えている大人が、
世界のどこかで、絶えず戦争がおこしていて、
そのためたくさんの子どもたちが恐怖の中で身をひそめて生きています。

「人に親切にしましよう」といいながら、
「道を教えて」と声をかけてくる人を、疑わなくてはなりません。

「守ってくれるはずの親」が、子どもを虐待することもあります。
「勉強が好きな子どもたち」でさえもつらくなるほど、
受験にむけて「知識」をつめこめなければなりません。
それは、子どもたちに芽生えてきた大切な「知恵」や「個性」を、
押しつぶしてしまうことになりかねないというのに、です。

「無理をしないで。つぶされないで。君は君のままで素敵なんだから」
 わたくしは、自分の書く童話の中で、形を変え、
いつもそうメッセ
ージを送ってきました

盲導犬の不合格犬は、そんな気持ちを伝えるのに、
ぴったりの素材だったといえるかもしれません。

 おばさん作家のわたくしの童話は、
決して「文学」といえるレベルのものではありません。
それが悩みでもありました。

 子どもたちをはげますつもりで書いた「盲導犬不合格物語」でしたが、
その感想文が、内閣総理大臣賞に輝いたことは、
結衣子ちゃんから、
「おばさん、おばさんは、おばさんのままでいいのよ。だいじょうぶよ」
と、あべこべに、はげましていただいたように思います。

 これからも、この姿勢を守って書いていく自信がつきました。
結衣子ちゃん、ほんとうにありがとうございました。

 そして、心からおめでとうございました。


   




★2003年 『美人になるおべんとう』 「ごちそう大集合」入選。

創作仲間がそろって応募することになり、私宅にも応募要綱がファックスで届きました。お気持ちありがたく、食べ物の話なら書けるかな、と今更ながらチャレンジしました。
日本児童文学者協会の木暮正夫会長から、手書きの入選通知をいただきました。
入選作品はアンソロジーとして、偕成社からシリーズ出版されました。

当HPで呼びかけて、関西の入選者が集まりお祝い会をしました。どうしていっしょに写真をとらなかったのでしょう。デジカメを持っていっていたのに。それだけおしゃべりが楽しく、盛り上がっていたのだと思います。

その後、みなさんのご活躍のニュースが、どんどん飛び込んできています。
藤野恵美さんが、「ねこまた妖怪伝」でジュニア冒険小説大賞受賞。単行本になりました。福元あいこさんが、ニッサン絵本と童話のグランプリで佳作、芦田雅子さんが浦安文学賞の佳作、おちまさ子さんが、公募ガイドの童話新人賞で優秀賞をそれぞれ授賞されました。その他の方もグッドニュースがあれば、掲示板に書き込んでくださいね。ここに追加していきます。



★1999年 『おっくんと約束』 熊野の児童文学賞佳作受賞

式場はレストランでしたが、表彰式の後に出てくるお料理は、地元で採れた食材で作ってあり、全体にはイタリアンでしたが心がこもっていて、とてもおいしかったです。

末吉暁子さんは、とても華やかでおきれいな方でした。

           
           右端が大賞受賞の池川恵子さん 1人おいて後藤みわこさん


レストランと同じ建物内にガラス工房があり、見学させていただきました。香水も自分でつくれるそうで、休みの日には、たくさん町の方がやってこられるそうです。おみやげショップもありました。

                
                 素敵なガラスのトロフィーは地場産業

ちなみに、前年の大賞受賞は、わたしたちの創作仲間の中尾三十里さんの「さいなら天使」でした。



★1998年 『みんな魔法使いになればいい』
            地球にやさしい作文・活動報告コンテスト入選


主 催   読売新聞
テーマ  地球環境を救うために、いま私たちができること

審査員  竹内均・C.W.ニコル・今井道子・文部省、環境庁、通産省、読売新聞、スポンサー企業
応募数  合計26499―小学生の部2928 中学生の部10343 高校生の部4531 一般の部1763 外国人の部209 ポスター(小学生)6725

表彰式は盛大でした。小学校から高校までの子どもたちには、家族のほかに学校の先生方が付き添って来られていて、にぎやかでした。立食パーティも、ごちそうでした。 


              

賞金10万円 いっしょに行った長女の旅費と私たちの宿泊費に消えました。



★1998年 『シマシマくん』 全国童話コンクール佳作入選

なんだかもう手当たり次第応募していました。どこから依頼がくるわけでもなく、公募に応募するしか表現の場がなかった時代です。力を試す意味でも公募はありがたかったです。



★1997年 『おれの呼び名』 つきほし創作館佳作入選

つきほしは』三度目の入選です。何度もチャレンジしたのは、それほど発表の場がほしかったのでしょう。



★1996年 『モモイロハートそのこリュウ』 恐竜文化大賞受賞 
                                    
応募数545作品

福井県勝山市主催(勝山市は、恐竜の化石がたくさん発掘されていて、後に、恐竜王国が出来ました)
企画監修 竹内 均(東京大学名誉教授、福井県立博物館名誉館長、地球物理学者)選考委員長 小松左京(SF作家)選考委員 たかしよいち(児童文学者)・ ヒサ クニヒコ(漫画家)・高畠純(絵本作家)

童話(文章)と絵本の公募でした。選考委員のお一人高畠純さんは、「童話と絵本が同じ土俵で戦うのは不公平だ」とおっしゃっていました。「文章では、人が100人いると一言でかけばすむが、絵では1人1人100人も描かなくてはならない」ということでした。絵本作家ならではの言葉だなあと思いました。入賞した絵本は、どれも素晴らしく、ほとんどがプロの方でした。後に素敵な本になりました。私の作品は、小松左京さんが推してくださったと聞きました。

           
                  私の右隣のオレンジのスーツは大塚菜生さん

          
                     ヒサ・クニヒコさんと表彰式の前の晩に
        
                   

賞金100万円
汐文社より単行本出版。これがご縁で、汐文社から、つぎつぎ単行本を出していただきました。私にとってこの賞は、童話作家への大きな第一歩になりました。




★1996年 『ぼくはワニつき イグアナつき』 学研読物特賞入選

1年生の読み物(お話びっくり箱)として採用されました。
賞金は10万円。
出版社の賞はありがたいというか、これをきっかけに、「お話びっくり箱」に次々書かせていただき、単行本も出していただきました。今もご縁が続いています。





★1996年 『約束』 みくに児童文学短編コンクール入選  応募数1073編

みくに出版主催
月刊「知の翼」掲載。
賞金15万円。
後日、新たに教材としての原稿依頼があったのですが、向うの趣旨とあわなかったようで、没代として1万円いただくという失態もありました。





★1996年 『ほっぺにチュッ』 ありがとうを伝えたい賞入選

PLの公募でした。記念品をいただきました。
入選作を集めて本になりました。




★1996年 『どぶ事件』 鎮守の森とおまつり大賞受賞 
 

神社本庁主催。一般応募1364作品・青少年部門 1242作品
★審査員    神社本庁総長 岡本健治氏
          大学名誉教授 岡野弘彦氏
          作家       平岩弓枝氏
          エッセイスト  見城美枝子氏
表彰式は、大阪の神社本庁で、神主さんたちが集まる神前でおごそかなうちに行われました。
・見城美枝子さんの評―最優秀賞の「どぶ事件」には、現代の神社と現代の母親気質がでていて、しみじみと、またビビットにおもしろかったです。
・平岩弓枝さんの評―「どぶ事件」は、たくまずしてユーモアに満ちた楽しい作品であり、それでいて母親の我が子に対する愛情がじんわりと胸にしみて来るあたりに心を惹かれました。単に受験のための合格願いをするというだけではなく、神にぬかづくということ、祈りの本質を体得していらっしゃるというのが文章の厚みになり、人生観の深さがのぞける作品になったと思います。


大阪の神社本庁で表彰式がありました。厳かなものでした。
                
                  周りの方々は、神官のみなさま
賞金は10万円。

神社本庁のホームページ(その後の公募はありません)。




★1996年 『あだなは天然記念物』 カリヨンコンクール優秀賞 
                                     
応募数779編

京都府の大宮町教育委員会主催。
物語の中で、おじいさんが主人公の男の子に歌を唄ってきかせる場面があります。なにげに軍歌にしたのですが、これはひっかかったそうです。戦争体験のない私にとっては民謡や唱歌の軽さだったのですが、うかつでした。軍歌は戦争を背中押しする部分もあるので、それを唄わなければならないストーリーならともかくも、歌ならなんでもよかっただけに失うかつでした。
賞金5万円振り込まれました。
冊子を五冊追加注文したところ、1冊400円でした。

その後の公募はないようです。





★1996年 『いのち』 毎日新聞小さな童話奨励賞

表彰式には、かっての大賞受賞者の江國香織さん、正道かおるさんも来られていました。
審査員 今江祥智・山下明生・落合恵子・角野栄子各氏。審査員のみなさんからは、コメントがありました。
私は奨励賞にすぎませんでしたが、その後も毎年招待状がきました。欠席の返信を出しそびれた2003年の翌年から来なくなりましたが。
一次審査をパスした「灰色バス」は、後に書き直して、単行本「灰色バス変身大作戦」になりました。


応募要綱(2004年度のですが、毎年同じ条件です)。



★1996年 『千客万来悩みがひとつ』 アンデルセンメルヘン大賞優秀賞

優秀賞をいただき、念願の本になりました。私の作品を選んで挿絵を描いてくださったのは、山城隆一さん。猫好きのわたしにとって、山城隆一さんの絵は、あこがれたっだので、たまらなくうれしいものでした。
今回のイラストれーターは、山城隆一さんのほかに、小泉英里砂・松本修一・松井しのぶ・おぼまことさんで、みなさん出席されていました。もちろん、すてきな原画も展示されていました。

           
                   山城隆一さんと、後ろは挿絵の原画

               
             あこがれのコペンハーゲン社の手描きの大皿

賞金10万円。
前日に安芸の宮島に寄り、屋台で岩牡蠣の焼いたのや、やきもち、竹輪などを食べました。広島に一泊して思いがけない親孝行ができました。


応募要綱(毎年同じです)。



★1996年 『たんぽぽ』 つきほし童話館佳作入選

前回、男性社員の方が自宅に表彰状を持ってこられたのにこりて、賞状と副賞は郵送していただくようにお願いしました。快く応じていただきました。



★1995年 『おいで野原へ』 新美南吉童話賞特別賞

二年前と違って、立派な記念館ができていました。
が、受け付けしてから帰るまで、いっぱいのお茶すら出していただけなかったので、早朝に家を出て遠路はるばる来た者にとっては、疲れを取る間もありませんでした。
それに、これはとってもおかしな話なのですが、前回と同じ特別賞なのに、賞金が1万円少なかったのです。同じ特別賞の人と首をかしげていたのですが、家に帰って確認の電話をしました。と、今回は2万円ということでした。なんだか腑に落ちない気持ちを伝えました。もう一人の人も電話をされたようで、のちほど一万円を送ってきたのですが、よれよれのお金がむきだしで入っていたのには、ちょっとびっくりしました。


  



★1995年 『白い犬のわがままな足たち』 アンデルセンメルヘン大賞入賞

震災のすぐあとのアンデルセンの誕生日に、広島のパン屋さん「アンデルセン」で行われた表彰式は、とても華やかなものでした。一階はパン屋さんに花屋さん、そして喫茶店。二階はパンレストランに、コペンハーゲンのグッズショップ。上の階は、カルチャー教室に会議室にエトセトラ。こんな素敵なパン屋さんがあるとは、おどろきでした。

大賞と優秀賞の5編には、一流のイラストレーターに挿絵をつけてもらって本になります。その挿絵の原画が、会場に展示してあり、それを描かれたイラストレーターの方々も来られていました。宇野亜喜良・大橋歩・松永禎郎・原田維夫・秋里信子さんたちです。うれしい出会いでした。

この賞の選考方法は、下読みで上がってきた作品の中から、立原えりかさんがそれぞれのイラストレーターに合った作品を5作選ばれます。その中の1作を、イラストレーターが選ぶというやり方になっています。私の作品は、秋里信子さんの5作の中に入っていたそうで、ご本人から伺ったところでは、絵にしにくかったそうです(私の中では、しっかり絵のモチーフはあったのですが)。この賞に入るには、作家だけではなく画家の目も通過しなければならないのです。つまり「絵になること」を意識して書くというのが、賞を獲得するポイントかもしれませんね。
そういうわけで、今回は残念ながら入賞止まり。本にはなりませんでしたが、いつかはきっと、と心の中で誓いました。


           
               立原えりかさんは、とても魅力的な方でした
  
               
           上段中央が副賞のコペンハーゲン社の手描きのお皿     
 
★公募要綱(毎年同じ条件で続いています)



★1993年 『大きなくつした、小さなくつした』 新美南吉童話賞特別賞

知多半島の半田市まで、母といっしょに出かけました。電車を乗り違え、大慌てしました。けっこう遠く、丸一日かかりました。控え室で日本茶をいただきました。
表彰式は、新見南吉のイベントの一部に組み込まれていました。式の終了後、新美南吉の生家を見に連れていってもらったのが、よかったです。


             



                                                                                                            
1993年 『寒がりやはよっといで』 家の光童話賞受賞  応募数2199編


審査員は寺村輝夫・山下明生・中川李枝子の諸先生方と、家の光の森下理事。
家の光の1月号(1993年)に、掲載。村上康成さんのかわいくてカラフルな挿絵が、お話をグレードアップしてくれました。雑誌にのせる写真は、わざわざ東京からカメラマンが我が家まで撮りに来てくれました。

表彰式は、全国JAの代表者が集まる東京の総会会場で、晴れがましく行われました。
授賞式のあとは、神楽坂の料亭でご馳走になりました。
          
     
      私の右隣の女性は地上文学賞受賞者           中川梨江子さんと
 
                 
                    大きくて重い立派な盾です
賞金は50万円。
10数年も経った2003年、日本児童文芸家協会の総会で家の光の編集者さんと出会い、児童向けの雑誌「ちゃぐりん」に短編を書かせていただきました。2005年6月には「家の光」に短編を書かせていただきました。




★1992年 「たまねぎ人形」 泉州お土産アイディアコンクール田尻町長賞

田尻町の名産は「たまねぎ」。ということで、たまねぎ人形のイラスト、素材などを書いて送ったように思います。
表彰式の日が、他の表彰式と重なり、夫に代理で出席してもらいました。が、道がわからなかったとかで、式が終ってから着いたようでした。
賞金は、1万円?だったかな……。もしかして商品券だったかも。




★1992年 『ばらばら家族なんかやない』
                   日本児童文芸家協会コンクール佳作受賞


表彰式は、まわりはみんな作家という人たちに囲まれて、とても晴れがましい気分でした。

佳作をいただいた時、この作品は20枚でした。授賞式で、「これは、いわばあらすじ。長編向きの作品だ」とアドバイスを受けたものの、どうやって長編に書き直すのか、童話を書き始めて間なしの私には、見当もつきませんでした。文章教室で学んでいくうちに、出来事を場面で書くということを知り、20枚がやがて30枚になり、仲間に合評してもらって推敲していくうちに、なんとなく形になっていきました。書き手にとって、適切なアドバスほどありがたいものはありません。
1999年に汐文社から、「家族か兄弟について書いてください」という依頼をいただき、一気に書き上げたのが、このお話がもとになった「はちゃめちゃ大家族」です。

        

宝塚の童話コンクールでごいっしょだった中島博男さんと、また出会いました(前列右から二人目)。その後、2003年に亡くなられるまで、年賀状のやり取りをしました。前列左から三人目は坂本のこさんです。童みどりさんは後列右から四人目。わたしは後列右から二人目です。


賞金は「なし」ですが、それ以上のものをちょうだいしました。 「児童文芸」にエッセイ、短編、連載など、発表の場を与えていただくとともに、常に創作活動を支えていただいています。

日本児童文芸家協会ホームページ(コンクールの案内ものっています)



1992年 『おじいさんの時計店』 宝塚童話コンクール入賞

出来上がったばかりのバウホールで表彰式が行われました。
当日発表と言う形をとっていますが、実は、入賞者には前もって通知がありました。全国から応募があるのですから、考えてみれば、当たり前のことです。
駐車場が満員で入れず、とても困ったのを覚えています。


    
         前列は、子どもの入賞者と審査員のみなさん(舞台の上で、前は客席です)

賞金は10万円でした。



★1992年 『しわ・しわ・しわ』 ほのぼの童話館佳作入賞  応募数3504編

目の前のものを何でも童話にしてみようとチャレンジしていた時代がありました。アイロンをかけていてイメージがふくらんだお話が、この『しわ・しわ・しわ』です。

この年初めて審査員になられた産経新聞の石野伸子さん(写真前列左)から、「しわ・しわ・しわ、大好きでした」といってもらいました。そういう一言は忘れられないものです。同じ佳作の草野たきさん(後列左端)は、後日「透きとおった糸をのばしてで」講談社の新人賞を受賞、作家としてデビューされました。


表彰式も立派でしたが、そのあとのパーティは、とてもごちそうでした。

          
        前列左から石野伸子・小関三平・二人とばして鳥越信・西内ミナミ審査員

佳作の賞金は、7万円でした。
ほのぼの童話館のホームページ



★1992年 『それなりに』 つきほし創作館入選  

飛騨の高山に旅行したとき、時間待ちでふと訪れたお寺で、土地の人といっしょに法話を聞きました。この作品は、それが、ヒントになって書き上げたものです。仏教童話に応募しましたが、同時に応募した「石ころしぞう」が、大賞を獲得しました。仏教童話の表彰式で、「それなりに」も最終審査に残っていたことを知らされました。
その後、「つきほし創作館」の応募を知り、テーマが、「地球となかよくくらす」だったので、それにあうように書き直して応募したところ、入選しました。

表彰式は、ありませんでした。月星化成の人が表彰状を持って、自宅まで来られたのには、びっくりしました。駅から我が家まで車で送迎するのはともかく、身元はわかっているとはいえ見ず知らずの男性に、昼間、女(いちおう)の私しかいない家の中に上がっていただくについては抵抗があり、ご近所の方にお願いして同席していただきました。我が家のリビングで、「表彰状 沢田俊子殿……」を始められたのには、びっくりするやら、おかしいやら。
副賞は、月星ゴムの商品券3万円分でした。これが、なかなか使いづらく(使わせてくれる店がなかなかないのです)、いつまでも手元にありました。友人などに少しずつ差し上げて、いつしかなくなりました。




★1992年 『石ころじぞう』 仏教童話金賞受賞

スポンサーが仏壇の「浜屋」だったので、表彰式は、仏壇などの展示されている神戸の会館でありました。
最終審査に私の作品が2点残っていたことを、審査委員長の中川正文先生から、控え室でお伺いしました。もう一作は、少し短かったということでしたので、わずかな長さの違いも、最終審査のチェックポイントになるのかなあと思いました。仏教童話というと、お地蔵さんや念仏をテーマにしたものが多いようですが、子どもを主人公にした童話が求められていることをも知りました。

               
                  上 審査員の中川正文・西田良子両先生
                  下 浜屋の社長さんから表彰状をいただきました

賞金は50万円。記念にバッグでも買ったらと夫がいうので、元町をぶらつきました。右のバッグは私が選んだもので、現在はかなりくたびれていますが愛用しています。左は夫が薦めてくれたものですが、好みにあわないのでほとんど使わないまま、今日にいたっています。                

              

入選作品が、授賞式の朝、読売新聞の全面に載るのもうれしいことですが、後に、第1回から第10回までの金賞作品ばかりを集めた本が発行されました。しかもその本は、2003年カンボジア語に訳されて、ポルポト焚書政策書物の焼き払われたカンボジアの子どもたちに配られたという余禄もありました。

この公募は、残念ながら2002年で打ち切りになりました。

                                      


★1991年 『時代を超えたサイン』 総合報道賞感想文一席受賞

千代田区の東京商工会議所で行われた表彰式に招かれました。論文の表彰も同時にありましたが、論文・感想文ともに入選者は企業戦士や大学院生ばかりで、主婦の私はちょっと場違いな感じがしました。サイン(屋外広告)についてすんなり書けたのは、結婚するまでの8年間、広告代理店(電通)に勤めていたからかなと思います。
賞金は10万円。
表彰式の様子、講評、作品はPOP EYEに掲載されました。

総合報道のホームページはここです。



★1991年  「人は山に家を植えた」吉備川上漫画グランプリ佳作入賞

第一回公募のテーマは、「山と人」でした。即ひらめくことができたのは、丘陵を開発したニュータウンに住んでいたせいかもしれません。
鉛筆で10分。クーピーで色をつけて10分。それで出来上がりという荒いものでした。もともと入選しようなど思ってもいなかったので、ありあわせの画用紙を使い、後で他の入選作品を見ると、申し訳ないほど気楽なものでした。綿密に描かれた力作揃いの中で、なぜわたしの作品が選ばれたのかは、わかりません。
作品のタイトルは、「人は山に家を植えた」。この言葉がひらめいてこそ書けた絵でした。

表彰式には、母といっしょに出かけました。川上町は、岡山のうんと山の奥で、駅までマイクロバスが迎えに来てくれていました。けっこう長い間揺られていました。畳の香りも新しい公民館で一泊させてもらったのですが、夕飯は、受賞者がそろって、地場産の食材を使った心づくしのおもてなしを受けました。
夜明け前、職員の方に案内してもらって、雲海を見にいきました。足元に、海のように広がっている雲の間から昇ってくる太陽と、雲が織り成す自然のドラマの展開に、心が洗われる思いがしました。前の晩から待機してシャッターチャンスを待っていたカメラマンの多かったことにも驚かされました。

                     
                      上  雲海
                      中  山はカメラマンでいっぱい
                      下  おろちの舞
 
 
 

                   
                         富永一朗氏と母と

表彰式は屋外だったのですが、風の強い日で、なんとも寒かったです。
審査委員長の富永一朗氏を初め、審査委員の出光 永・多田ヒロシ・山田清香・平井一雄・南一平・佐藤呈次町長の諸氏も出席。ミス川上町も。見事なおろちの舞の披露もありました。
賞金は、5万円。母の旅費と宿泊費に消えましたが、母がとても喜んでくれ、いい思い出ができました。
 
この賞は、その後も毎年公募があって、現在も続いています。詳しくはホームページを。  



★1991年 『しずおばあさんのおねがい』 クリスマス童話に入選

ニュータウン内にある百貨店の公募でした。
童話を書き始めて間なしの入選だったので、家族揃っていそいそと展示会場に出かけました。自分の書いた童話が、壁一面もある大きなパネルになっていて、とてもうれしかったです。写真を撮っておけばよかったかな。

                   

クリスマスのかわいい童話がいっぱい詰まった冊子ができあがったのですが、このローカルな公募は、後にも先にも一回きりでした。公募案内に副賞がでることは書いてありませんでしたので、期待していませんでした。開催中に売り場に来るようにという案内状をいただいたので寄ってみたところ、男性社員が出てきて商品券を手渡してくれました。でも、まるで「くれてやる」といった横柄な態度だったので、やや屈辱を感じました。中身は5000円でした。