どぶ事件 

応募数2606作。入選作72作品は、「心に生きる風景」という神社本庁発行の本にまとめられた。




「お母さんどうしよう、えらいことや」
 中三の娘が悲壮な顔をして、学校から帰ってきた。
手には泥水を吸ってドボドボになった受験のお守りを持っている。
「かばんにつけといたのに、スルリと外れて、どぶに落っこちた」
(ほんま、えらいこっちゃ)
 娘は二日後に受験をすることになっていた。
お守りをどぶに落とすなんて、
その結果を暗示しているようで、内心ドキリとした。
「だ、だいじょうぶや。お守りさんが身代わりに落ちてくれはったんや。
これで、試験には落ちることはないと思うわ。よかったとかった」
と、その場はどうにか取りつくろったものの
なんとなく気にかかっていた。
 
さて、試験の当日に朝、私はいつもより早く起きて、お弁当を作っていた。
我が子の初めての受験ということもあって、なんとなく落ち着かない。
「あっ」と叫んだときは遅かった。
セーターの袖にひっかかった急須が床に落ち、割れてしまった。
不安が走った。これぞ、万事キュースだ。
いや、そんなのんきなことは、いっていられない。
しかも起きてきた娘は風邪を引いたらしく、鼻を何回もかんで、頭が痛いという。
(なんたること)
 これは、ゲン直しをしないといけない。
 受験に行く娘をせかせて車に乗せ、神社へと走った。
 辺りはまだ真っ暗。信号は黄色の点滅。
ほとんどの人がまだまどろんでいるというのに、
神社はすでに掃き清められ、お灯明があげられていた。
 シーンと静まった門をくぐると、自然に身が引き締まった。
 神社の前で一心に手を合せてお願いをしていた娘は、心が落ちついたという。
 そして、それは、よい結果につながった。
 このとき、改めて、来る者拒まずの神社があちこちに点在している
日本という国のありがたさを、つくづく感じていた。
「困ったときの神頼み」とはよくいったもので、
私ならずとも、どれだけ多くの人が今までに、神殿の前で手を合せて
心を引き締めてきたことだろう。

 思えば娘のお宮参りに始り、七五三、入学、受験。
夫の厄払い、旅の安全、病気の回復、
仕事の成就など、家族の人生の節目節目には、
いつも神社にお参りしてきたように思う。
 娘のおねしょが治るお札を頂きに、
京都までいったことも、今ではなつかしい。
 
どぶ事件から三年が経ち、
娘は、今、大学受験の真っ只中にいる。
寒風の中、一心に「お年参り」をしている茶髪頭を見ていると、
娘が神社を心の大きなよりどころにしていることがわかる。
この娘もいずれは家庭を持ち、その家族のために、
神社に参詣する日が来るだろう。
それまで元気でいてやりたいと、
私は私で、神社の前で手を合せていた。