連載小説「あかんべ」 第8回「自由都市文学賞」最終審査ノミネート作品 沢田俊子 |
―最終回― 『ケチを楽しんで一千万円ためよう』 著者名をみて武志は唖然とした。生活評論家・山際和子とあった。和子ではないか。 この手の本が、すでに何冊も出ているらしい。本の末尾に紹介されていた。 『暮らしの工夫』 『お金をかけずに満ちたりた食卓を』 『あなたも一か月9,999円で暮らせる』 『節約は、どこまでできるのか』 『ごみの山は宝の山』 『ケチケチ作戦で不景気を楽しもう』 『リサイクル手作りグッズの作り方』 驚くではないか。そうだ印税。印税はどうなっているんだ。 気にしながらも、送られてきた本を読んでいると、ちまちまと生活をしていた あとがきを読む。 ―あなたなら、もし一千万円へそくりがたまったらどこに隠しますか。私が最近 武志はあわてて、げた箱にとんでいった。 たった二足しかない自分の革靴のうち、黒い靴の中敷きを急いでめくった。あ 残念でした。お金のありかはあなたの靴 ではありません。 百八十七足の私の靴の中に、片足に五万 づつのお金がしきつめてあります。 私の靴、まさか捨ててはいないわよね? 美奈子さん(でしたよね)には小さいし 私が死んだあと、あの靴をあなたがどう するか、興味津々です。 印税、特許料など私の死後に生じる利益 のすべては、『地球の資源を護る会』運 営のために寄付する手続きをとりました。 家は同会の事務所に提供しましたので、 悪しからず、お明け渡しください。 べろりとめくれあがった靴の上敷きは、呆然とつっ立っている武志に向かって 完 ご愛読くださいましてありがとうございました。
美奈子だった。 「何なの、いったい」 片っ端から靴をつまみあげては、「ひゃあ」「まあ〜」「ひどい」「最低」 「悪趣味ねえ。どうするの、この靴?」 「どうしょうもなにも……」 武志は、冷静に物事を考えられる状態ではなかった。 「捨てなさい」 美奈子は叫ぶと、台所からごみ袋を持ってきて、箱から取り出した靴をどんど 「早く、焼却所に持っていきましょうよ」 美奈子にせかされながらごみ袋を車にのせ発進させた。まるで三角関係のもつ ごみ処理所の大きな穴にごみ袋を投げ入れながら、数百万円はしたであろう靴 バーで豪勢に飲んで、美奈子がせがむにまかせてブランド物のバッグを買って 今晩は、正々堂々と美奈子のマンションにいくぞ。帰る時間など気にせず、手 「て、やんでえ、ばかにしやがって」 自宅に帰ったころには、すっかり酔いがさめていた。 和室に散乱した空の箱をつぶしながら、武志は、ふと和子ならこの空き箱を何 H11・12/12……か。 武志の誕生日だ。いったいどんな靴と手紙が入っていたのだろうか。確かめら H11・12・12 医者はいいました。 「睡眠薬ばかり飲んでいたら、ぽっくり いっちゃうよ」 ぽっくりもいいと思いました。 臓器提供で悩むこともないんですもの。 いつ死んでもいいように、私は、自分で 稼いだお金を隠すことにしました。 どこに? 裏切り者のあなたには教えないでおこう とか思いましたが、最後の誕生プレゼン トです。 もし見つかれば、あなたのものです。 ヒントは「あかんべ」です。 「ばかばかしい。何があかんべえだ」 つつましやかな振りをしやがって、何百万もの無駄金を使うなんて。もう、く
―第十四回― 履きもしない破廉恥な靴に三万円も払う ことが、あなたへの仕返しだと思うと、 それはもう恍惚感でした。三万円が五万 円でもかまわないのです。 飲み屋街のネオンにも劣らないけばけばしい飾りを施したショッキングピンク ここのところ、毎日のように靴屋を覗い ています。そして、買わずにはいられな いのです。 もし今日、あなたが早く帰ってきたら、 こんなばかげたことは、金輪際やめるつ もりでいました。 十二時になるのを待って、私はこの靴を はいて、家の中をかっ歩しました。かか とが、張り替えたばかりの畳にささりま す。なんて愉快でしょう。スカートをた くしあげて太ももをあらわに、腰をくね らせて淫らなポーズをとってみました。 なんということだ。あのつつましやかな和子が……。武志は、頭をかかえこん この靴で、大黒柱をけりあげた時の、足 の痛さ。とび上がりました。 ばか野郎。私は泣き叫びながら靴を片手 に持ち、柱に打ちつけました。もし、そ の時の私をあなたが見ていたら狂ってい ると思ったことでしょう。いいえ、たし かに狂っていたのかもしれません。 あなたが浮気をするたびに買った靴はと っくに百足を越え、靴代は、かなりな額 になりました。 「な、なんだと!」 武志はあわてて暗算をした。一足二万円としても、今、ここにある靴はざっと 「こんなくだらないものに、おれの金を使いやがって」 積み上げらた靴箱を片っぱしからけり倒した。赤や紫の靴が部屋中に飛び散っ その時、チャイムが鳴った。 ―第十三回― H11・6・10 手術の度に衰えていった父の最後の言葉 を思い出す。 「つらかった」だった。 何のための手術だったのだろう。 わずかとはいえ延びた命で、父は何をし たかったのだろう。結局は、苦しむため の延命ではなかっただろうか。 体からぶら下がった沢山の管が父の命を 吸い取ったような空しさだけが残った。 癌に侵されていると知った母は、手術を 拒否した。延命も拒否した。「自然のま ま逝かせてほしい」と懇願した。 そして、潔くこの世を辞した。わたしも 母と同じにしたい。 臓器を提供しないことは、卑怯なのだろ うか。人として失格のなのだろうか。 自分の体を提供しないくせに、物をリサ イクルしていることは、もしかしたら、 傲慢なことなのだろうか。 やはり和子は悩んでいたのだ。 H11・8・19 セミがわたしを笑っている。 わたしをあざけるために、この世につか わされてきたようなセミ。 さんざん悪口を言って、言いつくして、 あっけなく死んでいく。 それに比べて、わたしは長い人生を、た だ耐えるだけ。 父と母の思い出だけを大切に、ひとりで 生きるべきだった。 なぐり書きのように字が乱れている。文句ひとついわなかった和子が結婚後悔 H11・4/10 きょうは、二十回目の結婚記念日。私に とっては、かけがえのない大切な記念日 なのに、あなたには、それより大切なこ とがおありのようですね。 武志は忘れていたわけではなかった。妻と二人だけの記念日ごっこがわずらわ ―第十二回― H12・1/7 店のなかで一番下品な、決して履くこと はない靴を買う時の後ろめたさは、快感 でした。裏切りには裏切りで返すことに したのです。おわかりかしら? 靴の数 は、つまり、あなたの私に対する裏切り の数だということを。 武志は身震いをした。どこからか、あの日七草を刻んでいた和子の念仏のよう 今年の一月七日は、とても寒かった。美奈子の暖かいベッドの心地よさに、つ とうどのとりと にほんのとりとわたらぬさきに ななぐさなずな 暗くて悲しそうな歌声に、思わず玄関に立ちすくんだことを思い出した。 「いややわ、そんなところで何をしてはるの」 こ走りに玄関に出てきた和子の声は、うってかわって明るかった。 「麻雀って、勝ってしまうと、なかなか帰してもらえへんのよね」 疑っているそぶりなど、みじんもみせなかったのは、遅くなると電話をしてお 「七草がゆ、無駄にならへんでよかった」 何事もなかったように向かい合って粥をすすった。そしていつもの通り、和子 H11・8・5 私は、この頃、眠れなれないのです。 眠れないと、ついよけいなことを考えて しまいます。 眠っているうちに、あなたと私のささや かな記念日がどんどん減っていくような 気がして、こわいのです。 お医者さんは、ご主人に相談しなさいと いいます。わたしを裏切り続けているあ なたに、何を相談すればいいというので しょう。 あそこの医者はやぶだ。 いつからだろうか、和子は階下で寝るようになった。それは遅くまで夜なべを H12・2・1 夫に追われて、捕まえられて、内臓をえ ぐりとられる夢を見た。 怖い。あれこれ考えると、眠れない。 和子の死因は睡眠薬の飲み過ぎによる心臓の衰弱だった。いろいろ事情を訊か そういえば……。武志は人間ドッグのついでに、ドナーナカードをもらってき 「おまえさんも登録してみたら?」 何気なくいったことばに、和子は異様なぐらい拒否反応を示した。 「私、体を刻まれるのなんていや」 「臓器を提供するというのは、まさに和子が好きなリサイクルだぜ」 「人間は別やわ。物とちがうもん」 「死んでしまえば物と同じだよ。物は最後までまっとうされるべきというのなら 「ちがうえ」 「与えられた一生を終えて、まだなお、人様のお役に立つことができるなら、ど 和子は何もいわなかった。言わない代わりに武志を憎悪を込めた目で睨みつけた。 「やれやれ。そんなにいやなら、無理にとはいわないがね」 心が狭いやつだと思ってはみたものの、武志にしてみれば、その話はその場限
―第十一回― H11・3・3 ひなまつりが来るたびに悲しいのは、子 どもを生めなかったせいでしょうか。 三十六歳にもなっているのに『子宮発育 不全』だと診断された時は、ショックで した。あなたには、申し訳なくてとても いえない。そのかわり、なんでも許さな くては。子どもが生めない罰やと思って ……。 なんということだ。子どもができない原因は双方にあっただなんて。どちらか H11・5・4 今日は、母の祥月命日でした。 泣いたり、反抗したり、甘えたりするこ とで、母の愛情を確認していた遠い日が 恋しくてなりません。 今の私には、心をさらけ出して泣く相手 も、わがままいっぱい甘える相手もいな い。何もかも信じて、身を投げ出す相手 もいない。 ひたすら靴を買うことで、不安で転覆し そうな心のバランスを保つしかないので す。 一人っ子だった和子は、確かに武志より亡くなった両親のことを大切に思って 「そうかて、わたしのことは、死なはったお母ちゃんが一番わかってくれはるさ しかし、和子が書き残した「不安で転覆しそうな心」とは、いったい何が言い H11・2・16
すると二万円を少し越えたと思います。 日々節約をむねとしている私にしては大 金でした。胸がどきどきしました。お金
を払ったとき、快感が足下から脳天に突 き抜けました。 してやったり。ざまあみろ。ふざけるな
どれも、あなたに対する偽らざる気持ち でした。 自分の存在が証明できたような、不思議 な気分がしました。
自分の存在を証明したいだって? ばかげている。結婚以来、十分自己主張し
―第十回― H11・9・4 誕生日ごときといわれてしまえばそれま でですが、子どものいない私にとって、 誕生日は、大切にしたい数少ない記念日 の一つでした。 ただ忘れたというのなら、許すこともで きたでしょう。その日を、踏みにじられ たというくやしさから、また、履きもし ない靴を買いました。 わけがわからなかった。倹約こそが生きがいだった和子が、誕生日を忘れられ いや、そんなはずはない。和子はリサイクルのことしか考えていないようなあ 「お帰りやす」 大とかげは、眼鏡越に武志をみあげた。和子が眼鏡? そうか、いつの間にか 結婚当初、和子は女の子がほしいとよくいっていたが、そのうちあきらめたの 「今夜、湯豆腐なんやけど」 「いらん」 「おふろは?」 「疲れたから寝る」 「そう」 もしかしたら、夕飯を食べずに待っていたのかもしれないと思ったが、早く二 どんなに遅くなっても、和子は、「夕べはなぜ遅くなったの」とも「だれと一 武志は手当たりしだいに箱から靴を取り出して、つま先に手を突っ込んだ。丸
それにしても、一、二足ならともかくも、不可解なほどの大量の靴は一体何を 美奈子に履いてもらおうかと思ったのだがそういうわけにはいくまいと、すぐ 「なんとしたものか……」 寝そべりながら、うず高く積まれた箱をながめていた武志は、靴箱に、マジック H11・4/1 H11・9/9 H11・2/5……。日付けのようだ。 武志がH11・9/4と記された箱に手を伸ばしたのは、その日が和子の誕生日 和子は夫婦の記念日を大切にしていた。にもかかわらず、会社の帰りに美奈子の 和子との結婚を続けてきたのは、経済的な打算からではなかっただろうか。不服 いたたまれなくなり二階にかけあがる。サウナのように熱気のたまった部屋の窓 ベッドに寝そべって所在なく和子を待っている自分と、美奈子のマンションで酒 ちょっとだけ眠ったつもりが、辺りは薄暗くなっていた。豆腐屋のチリンチリン 奴豆腐が食いたい。買いに出て、顔を合わせるのはおっくうだ。いつまでも帰っ 武志は料理が作れない。空腹のあまり冷蔵庫をあけると、ラップのかかったロー ほどなく帰ってきた和子は「講習会が長引いてしもて、かんにんえ」といって、 H11/9/4の靴箱に入っていたのは、どぎつい紫色の靴に金色の飾のつい 和子の字だ。いったい何だろうと動悸が速まる。いかに過去に書かれた手紙だと
美奈子が短大を卒業して武志の職場に入ってきたのは、武志が三十歳の頃で、も 「あたし、結婚しない主義なの。ひとりの男のために縛られて家事をする人生な そこまであっけらかんといわれると、振られたというわだかまりも残らない。 二年ほど前、酔ったはずみで男と女の関係になったものの、あいかわらずから 美奈子は四十歳を過ぎたはずなのに、入社当時と変わらず、自由で華やかな独 「そんなに切り詰めた暮らしをしていて、奥さん息がつまらないのかしら」 「つまるどころか、自分のけちぶりに恍惚としているよ」 「あたしは嫌だわ。そんな人といっしょに暮らすなんて気が狂いそう。あなた、 「あいつはあいつ、おれはおれさ」 「それで夫婦といえるの?」 「ものは考えようさ。おれと美奈ちゃんとが世帯をもってみろよ、半年で破産だよ」 「いえてる。今日も明日もパーッと飲んでりゃね」 実にのびやかなひとときを過ごした後、古い町の古い家に帰ってくると、家自 屈託のないその声は、時として武志を苦しめる。うしろめたかった。柳川鍋は、 「すまん、飲んできた」 「かまへんねん、あした、うちがお昼にでもいただくさかい」 シブチンの和子は余分な量の料理は作らない。当然余り物がでない。「主婦の 「きょうの昼は、何を食べたんだい?」 その一言が、なかなかきけなかったのは、もし、「昼は抜いている」などいわれ あすの昼は柳川を食べるといった和子の言葉に、武司はほっとしていた。 ―第七回― 台所から、魚を煮つける甘辛い匂いがしてくる。和子の父親と親しかったとい それにしても煮物の匂いは食欲をそそる。幼い頃、遊び疲れて家に帰ると、よく 「ほら、母ちゃん、おかんむりや。手伝ってこい」 父は箸の先で魚の一片を子どもたちの口に押し込んだあと、首をすくめてそう 武志も子どもがいれば、きっとそうしていただろう。食後、大根とキャベツの ている瞬間、武志はふと、古びた京都の家に『自分の家庭』を感じるのだった。 うつらうつらのあとハッと気がつくと、テレビはいつも消されていた。 「だまって消すな」 「そうかて、よう眠ってはったえ」 「ちゃんと見てたよ」 「もったいないんやもん」 和子は、縫い物の手を休めないでいった。リモコンを操作してもつかない。ス 「けちけちするな」 つい怒鳴ってしまった。妻がつましいのは勝手だ。それを押しつけられると腹 「こういうことって習慣が大切ですねん」 昼間のトイレは、近くのスーパーに出かけてすませるという和子の言葉には逆 そんな武志にとって、美奈子のマンションで過ごすひとときは、心身ともにリ テレビをつけっ放しにしておいてもいいだけで、リッチな気分になれるという 「けちくさいことをいわないでよ。なんなら寝室のテレビもつけてきてもいいわよ」 「そんなもったいないこと」 そういってしまった自分に、(すっかり飼いならされたもんだ)と、武志は苦
それにしても納得できないのは、今朝方げた箱で見つけた大量の靴だった。シブ げた箱に並んだ靴で驚かされたのは序の口だった。寝室のクローゼットの中、 靴箱がうず高く積まれた客間は、まるで靴屋の倉庫のようになってしまった。
―第五回― もう五、六年も前のことになるだろうか。武志の帰りを待ち構えていたように 「正座が苦手な人のための椅子やねん。こうしておいどの下にあてて座ると、足 「木かい?」 武志は、ほとんど義務感だけで相づちを打っていた。もともと金離れのいい武 武志の投げやりな返事に、それでも和子はうれしそうに、「ううん」と首をふ 「それがね、牛乳パックでできてますねん」 手で押してみた。ピクリとも凹まない。 「へええ、まるでお前さんの意志のように、頑丈だね」 遠回しの皮肉は、和子には通じない。 「そうどっしゃろか? これでたまっていた牛乳パックの整理ができるさかい、 当時、珍しかった牛乳パックの椅子を、和子は取り憑かれたように作りはじめ 「やれやれ、日頃の不義理に、親戚中に配る気かい?」 会社から帰る度にどんどん増えている牛乳パックの椅子に、武志が戸惑いを感 ただ同然で手に入れてきたという喪服をほどいているのは、牛乳パックの椅子 「同じ綸子でも昔の物はさすがやわ、ぼってりと重うて手ざわりがちがうねん」 尻に当たる部分に綿を入れると、牛乳パックのリサイクルとは思えないほど見 段ボールいっぱいに出た牛乳パックの切り落とし部分を、「さっさと捨てろ」 「これかて、まだまだ利用できますねん」 「このごみが?」 「ごみとちがうし」 物はすべて生かされるべきだという和子には、ごみなど存在しないに等しいよ (みみっちい) 吐き出したいその言葉を、武志は飲み込んだ。わずかな金しか家に入れない武 煮てとろとろになったパックの紙を、おくらなどの入っていた網袋をはりつけ 「そんな物が売れてたまるか。世間はそんなに甘くないぞ」 紅葉や銀杏などの葉の他に、蓮根やおくらの輪切りをあしらったのが珍しかっ ―第4回― 和子が「つましい」という叔母の言葉に偽りはなかった。ごく短い糸くずでも 「新しい糸で雑巾を縫うなんて、そんな大それたこと」 冗談かと思ったが、和子は真剣そのものだった。 「糸代なんてわずかなことじゃないか」 「お金がどうのというより、糸くずでも立派に役に立つんやもん。捨ててしまう 和子が良く作る『小魚のぴりぴり煮』という常備菜は、酒の肴にけっこううま 和子の作るみそ汁は、どことなく香ばしくて旨い。魚の頭や骨を弱火でじっく グレープフルーツは袋ごとミキサーにかけてジュースにする。それは袋や白い 皮はコンポスターに入れて堆肥にするという徹底ぶりだ。 「物は、全うさせてやるべきですねん」 そういう和子の生活感覚は、武志にとって新鮮で、面白いものだった。月々生 結婚してすぐの十二月のこと、夫婦の名前で上司や親戚に歳暮を送ろうという 「のり、石けん、お酒、シーツ。あんたはんなら何をもらいたおす?」 「さあ、酒かな?」 「お酒なら、ワインでも日本酒でもよろしいていうことやの?」 それは困る。酒はウイスキー。それもバーボンと決めている。 「そうどっしゃろ? 飲みすけということがわかっていても、そこまで気をつか そう言われてみればそうだ。なかなか手に入らないという吟醸酒も武志にとっ 「しかし、君と見合いをさせてくれた叔母だけには」 「仮に石鹸を贈るとしてみてえな。叔母さんはどんなのがお好み? 液体がええ 「そういってもだね」 「うちらが仲良うしているのが、叔母さんにとって一番の贈り物やと思わへん? おたくが稼いできてくれはった大切なお金。今時、こんなことをいってくれる しかし、こと葬儀に関しては別だった。香典を包まないことは、礼儀を事欠く 「お香典をもらったあとの大変さいうたら、ほんま、あらへんねん。どこのだれ 数年前に両親をあいついで亡くした和子の話には、説得力があった。 「お香典を包まへんということは、冷たいみたいやけれど、結局、遺族への思い 「しかし、なにもそれが俺たちでなくても」 「結婚したばかりの今しかチャンスは、あらへんえ。一回前例を作ってしもたら 和子は、かけひきがうまかった。 「今なら、不義理も嫁のせいにできるし」とまでいう和子に、結局言い切られる いつしか和子の考えが、家庭の中を仕切っていた。 ―第3回― 京都の下鴨にある和子の家はそうとう古く、ねだの落ちかかった所もあったが 二階に上がると、物干し台から裏の平家の屋根越しに鴨川の流れが見えた。そ 休日の朝、鴨川のへりをぶらぶら散歩するのが武志の楽しみになった。川の流 「散歩、いっしょに行こうよ」と誘っても、和子は「顔がさしますさかい」とい 和子は愛想よく頭を下げながらも、口元を手の甲で隠すと、「そやから、いや 「町会長はん、主人の武志さんですねん。どうぞよろしいお願いします。武志さ やっとのことで解放されたかと思う間もなく、今度は、ばあさんが待ち構えて 「こちらさはんは、母の女学校からの仲良しさんで、表通りで薬局を経営しては 武志が老婆に会釈をすると、「和ちゃんが行かず後家にならはるところをあん
二十年前、京都に住む叔母が縁談を持ってきてくれた。 「とにかく、今時めずらしくつましい娘さんでね。婚期が遅れはったんは、五年 収入のすべてを小遣いとして使い切ってしまうことに慣れ切っていた武志は、 「そやからいうて、いつまでも一人身でいられては、近くに住んでるあてが迷惑 こんな話はめったにないという叔母のすすめに、三十五歳になっていた武志は 口紅を引いただけの素顔におかっぱ頭の和子は、小柄で二十代にしか見えなか 「変でしょ? 亡くなった母の和服の縫い直しですねん」 なるほど、これが始末家だといわれる所以なのかと思いつつ、ほほえましく思 「洋裁がお得意なんですね」 「得意やなんて。でも、もし子どもが生まれたら……」 |
―第1回― 武志は、和子の遺していった大量の靴の始末に、ほとほと困っていた―。 妻の初七日が終わり、いよいよ今日から出社だという日の朝、武志は寝室のク 武志には衝動買いの癖があった。会社の帰りに本を買って、釣りをちゃらつか 「そのシャツ、先程入ったばかりなんです。熟年の方がお召しになると一段と素 「確か、この背広にはこれが……」 今、自分で組み合わせてみると、シャツやネクタイ、背広がそれぞれバラバラ そうだ、ハンカチ。ハンカチはどこだろう。アイロンをかけて小引き出しにし 二、三日雨戸を開けなかったせいか、いやにひんやりとしている。食欲をそそ 玄関のたたきに、靴が出ていないではないか。 「おい、靴……」といいかけて、妻は死んでしまったのだと頭の中で繰り返す。 この家は、もともと和子の家だ。そのせいか、結婚以来、自分でげた箱など開 何年も前に、和子が玄関先にも収納場所がほしいといって、知り合いの大工に 「な、なんだ、これは」 天井まである収納棚には、けばけばしい婦人靴が隙間もないほどびっしり並ん それにしても納得できない。妻は極端なしぶちんだった。夏冬問わず同じ黒っ 洋品類には目がない武志も、靴には興味がなく、通勤用としてオーソドックス |